理学部生物科学科(生物学)行動神経学系の松島俊也教授が、先日ご逝去された小西正一先生に対する追悼文を寄せてくださいました。以下に掲載いたします。
小西正一先生が2020年7月23日サンディエゴのご自宅で逝去されました。親友ウォルター・ハイリゲンベルグ(Walter Heiligenberg、サンディエゴ大学教授、1994年飛行機事故にて死去)のご家族に見守られながら、静かに亡くなられたとのことです。私は小西先生に師事したこともなく、深く先生を理解するものでもありません。ただ、先生が生物学者として歩きはじめた北海道大学・理学部に奉職するものとして、また神経行動学を仕事の中心に据えてきた研究者として、小西先生のことを語らずにはおられません。以後、マークと呼びますが、そうすればマークが最も喜ばれるだろうと思うからです。ご了解ください。マークの自伝(文献1)に沿いながら、簡潔にご紹介します。
1933年京都西陣の織物職人のご家庭の一人子として生まれました。豊かな家計ではなかったとのことですが、ご両親の支えを得て、京都市内の農業学校から新制の高等学校に進み、その生物学の先生から北海道を知りました。吉田先生とおっしゃる先生から聞いたヒグマの話をマークは紹介しています。子供のころから動物と共にある喜びがマークの根底には常にあったようで、高校の生物クラブでの逸話も楽しげに語られています。北大に入学し、学科は理学部の動物学教室に進みました。仕送りには頼れず、日雇いと家庭教師のアルバイトをしながら芋とニシンばかり食べてしのいだ、とのこと。最初の下宿の部屋は長さ3m、幅2mの大きさだったとのこと。生活苦の中にあってキャンパスの美しい緑(Kentucky blue grass)が「心の平安と希望をくれた」と書かれています。
学部時代から玉重光男先生の動物生理学のラボに通い、陸棲軟体動物とありますからナメクジでしょうか、その腹足のリズミックな運動が中枢性のものか、調べています。大学院修士課程は生態学の阪上昭一先生のラボに進みました。坂上先生はミツバチ社会の研究で著名ですが、マークは鳥類を選び、なわばりを構えるオオヨシキリを相手に、録音した囀り(ソング)をプレイバックしたとのこと。マークの最初の論文はオオヨシキリの一夫多妻婚に関わるもので、北大キャンパス(今の中央食堂や理学部3,4号館の北に広がる林地)で行った行動観察を中心とするものでした(文献2)。
学部生のころからアメリカ文化センターや教会の英会話教室に通っていたのは、海外留学を考えていたからでした。修士を終えるころフルブライト奨学金を得て、3つの大学からも博士課程の入学許可を得ました。Michigan、Yale、UC Berkeley、どれも当時、脊椎動物の動物学研究が盛んな大学でした。その中でBerkeleyが一番早く返事をくれた、それでBerkeleyに決めたとのこと。恐る恐る他の2大学の先生に丁寧な断わりの手紙を書いたところ、教授から「Berkeleyに決まっておめでとう!」との返事をもらった、これが強く印象に残った、とのこと。当時も今も日本の大学に残る人間の上下関係と不自由な空気を嫌ったマークにとって、自由の息吹を実感した瞬間だったことでしょう。振り返ることなく、まっすぐアメリカへ進みました。1958年のことでした。
Berkeleyでは、准教授として赴任したばかりのPeter Marlerのラボに、マークは加わります。オレゴンユキヒメドリの囀りを対象として、同種認知の研究を始めました。繁殖期の春にしか囀りませんし、当時は音響解析や合成技術も未熟です。奨学金を得ていましたが3年目になっても学位論文の目安は立ちません。4年目に入りマークは大きく舵を切ります。「鳴くこと」と「聴くこと」の間に脳が介在しているのではないか、という考えを得たのです。ヒントは単純なもので、聴覚に障害があると人はうまく話すことができない、という知見でした。しかし当時、鳥の研究者は生態にのみ関心を寄せており、脳を考えるものは周りにもいなかったようです。
平衡感覚を損なわずに聴覚だけをはく奪するために、内耳破壊の手術法を文献から探し出し、これを使ってマークは新しい研究を始めました。歌鳥がまだ小さな雛の時に父親の囀りを聴き覚えて、歌の鋳型を脳内に作り、やがて成長した後に鳴き始め、自分の発声を鋳型に合わせて育てて行く、という考えです。一連の論文(文献3)を通して、マークは新しい学問、神経行動学(Neuroethology)を立ち上げることになりました。良い問いを立て、重要な現象が未知のままに存在することを示し、具体的な形で解決可能だという見通しを与えること、大学院生のマークが実現したことはこれでした。包括的な総説をAnnual Reviews in Neuroscienceに書いたのは、さらに20年ほど後のことです(文献4)。
マークの研究を総括することはこの記事の目的ではありませんので割愛しましょう。1963年にポスドクとしてドイツへ渡り、1965年にはプリンストン大学(助教・准教授)、1975年以後はカルテク(教授)となります。Researchgateでのスコアを見ますと、247報の論文に12,976件の引用があります。先に述べたミヤマシトドの論文(文献3)は591回引用されています。日本の国際生物学賞をはじめ多くの賞を受賞しました。歌鳥の囀りの研究に留まりません。メンフクロウの音源定位をめぐる仕事は、およそ感覚情報処理研究の金字塔として知られています。
しかし、こう引用するほどに、マークの姿が遠ざかるように思えてなりません。外に出てきたものでマークは測れない、と思うからです。世界的なラボは50名100名という人員の組織を持つことが多いのですが、マークのラボはポスドクや院生を含めて10名ほどの小さなあつまりでした。一度に多くの学生を採ることをせず、ポスドクも自分で資金を稼いでやってきた者だけを受け入れていました。しかし、彼らのほとんどがやがてPrincipal Investigator、 つまり独立した研究者として世界のあちこちでラボを築きました。それも鳥の研究に留まらず、多種多様なラボが生まれて行ったのです。この豊かさの核にあるものが何だったのか、私はまだ理解できていません。
私がただ一回だけマークのラボでセミナーをした時のことを思い出します。スウェーデンでポスドクを終えたころのことでした。ポスドク時代の研究はそれなりに充実し、いくつかの論文は高い評価を受けていました。しかし何かが圧倒的に足りないという思いがあって、マークの前でも良いトークはできませんでした。マークも特段にコメントすることはなく、穏やかにうなずいて聞いていただけでした。しかし、私ははっきり気づきました。これではだめなのだ、良い問題を立て、未知の、明らかにすべき現象があることを私は示しえていない、私の研究はまだ始まってもいない、ということに気づいたのです。1992年、暑い夏の日のカリフォルニア、パサデナでのことです。私の本当の格闘はそこから始まりました。第10回ニューロエソロジー国際会議のプレナリートークで、私が格闘の成果を語ることができたのは、それから20年後のことでした。
マークは大きな人だったのでしょう。身体や声のことでも、まして態度でもありません。大きな質量をもった恒星の様に、遠く隔たったところからも星々をひきつけて、時には大きくその軌道を変え空遠くにふり飛ばしていく、その様な存在だったように思われます。マークと同じ時代を生きることができた祝福に感謝します。
(2020年7月29日)
2014年7月北大の我々の仲間が中心になって、札幌コンベンションセンターを会場に第11回ニューロエソロジー国際会議(比較生理生化学会合同大会)が開催されました。その折、マークの名を冠したシンポジウムが常設されることとなりました。その折の写真です。この国際会議は1986年の第1回東京大会から始まり、今も2年に1回、世界中で開かれています。https://www.neuroethology.org/
文献
- Autobiography of Masakazu Konishi, in “The History of Neuroscience in Autobiography” vol.6 by Larry R. Squire (2008), Oxford University Press (ISBN-10-019538010X)
- オオヨシキリAcrocephalus stentoreus orientalis TEMMINCK & SCHLEGELの生態 特にpolygyneousな1例の生活史について(予報)、菊池ひさぶみ・坂上昭一・小西正一(1957)、日本生態学会誌7(4), 155-160
- The role of auditory feedback in the control of vocalization in the White-Crowned Sparrow, Masakazu Konishi (1966), Zeitschrift für Tierpsychologie, 22(7), 770-783
- Birdsong: from behavior to neuron, Masakazu Konishi (1985), Annual Review of Neuroscience 8, 125-170