理学部ゆかりの研究者

中谷 宇吉郎(1900年生まれ)

理学部では学部が発足するとすぐに,研究所の設置を計画し始めた。北海道の自然環境や天然資源を活用した基礎的研究を行ない,他学部における応用的研究とも連携して,総合大学ならではの成果をあげようとしたのである。そして「自然科学研究所」の設置を政府に要望するが,これは実現しなかった。

しかし1935年度の予算では「低温」に研究上の焦点を合わせた「常時低温研究室」(学内共同利用施設)の設置が認められる。その研究室が36年1月に理学部の北隣に完成すると,早くも2か月後には中谷宇吉郎が注目すべき成果をあげた。

常時低温研究室(写真: 北海道大学大学文書館提供)
常時低温研究室(写真: 北海道大学大学文書館提供)

中谷は,理化学研究所の寺田寅彦のもとで始めた電気火花の研究を続ける一方,冬になると北海道十勝岳をフィールドとして,雪の結晶について研究していた。そして,人工的に雪の結晶を作成することに,完成したばかりの低温実験室を利用することで成功したのである。中谷はその後,助教授の花島政人らの協力も得て,雪の結晶の形状と気温ならびに水蒸気量(過飽和度)との関係を示す「中谷ダイヤグラム」を完成させていく。

低温室で実験する中谷宇吉郎(写真: 北海道大学大学文書館提供)
低温室で実験する中谷宇吉郎(写真: 北海道大学大学文書館提供)
中谷ダイヤグラム(出典: U. Nakaya, <i>J. Fac. Sci., Hokkaido Univ.; Ser. 2, Phys.,</i> 4(6), 1955, 343)
中谷ダイヤグラム(出典: U. Nakaya, J. Fac. Sci., Hokkaido Univ.; Ser. 2, Phys., 4(6), 1955, 343)

1941年11月には,この常時低温研究室が礎となって「低温研究所」が誕生した(建物の完成は1943年9月)。純正物理学,気象学,低温生物学,低温医学,応用物理学,海洋学の6部門(1942年4月現在)からなる,低温に関する総合研究所である。理学部長の小熊捍(生物学)が所長となり,中谷はじめ数名が理学部から参画(兼任または移籍)して,「凍上の機構について」(中谷),「低温環境における染色体突然変異」(芳賀忞),「海氷の研究」(福富孝治)など多様な研究を展開した。

低温科学研究所(写真: 北海道大学大学文書館提供)
低温科学研究所(写真: 北海道大学大学文書館提供)

戦後の1953年4月,理学部に地球物理学科が新設される。このとき,低温科学研究所での研究の蓄積が,同学科の土台の一部となった。第一講座(陸水学)と第三講座(気象学)の教授には低温科学研究所から,福富孝治および,中谷の薫陶を受けた孫野長治がそれぞれ就任した。第四講座(応用地球物理学)教授には物理学科から中谷が就任し,物理学科は兼任となった。

地球物理学科が誕生した背景には,有珠山の噴火と昭和新山の誕生(1944年)や,石狩川の上流域での氾濫(1947年),十勝沖地震(1952年)など大きな自然災害が続いたことで,災害対策の基盤となる科学的な調査研究やそれを支える人材の育成に,社会の期待が高まったという事情もあった。

科学研究は自らの世界に自閉することなく,社会からの期待に応えようと努めることも重要だ,と中谷は考えていた。自らも,戦時中から戦後にかけ,凍上や着氷の防止,霧消し,積雪資源の有効活用など,ときどきの社会的重要課題の解決に,物理学の観点から取り組んだ。

と同時に中谷は,社会が科学に対し研究成果を拙速に求めることには強く警鐘を鳴らし,たとえ遠回りに思えようとも基礎から研究を積み重ねていってこそ真の解決策が得られると力説した。

中谷は文筆の才に恵まれ,数多くの科学随筆を発表した。それらは,自然界の神秘とそれを解き明かしていく科学研究の醍醐味をわかりやすく人びとに語りかける作品群であり,雪の結晶の研究に関連して残した「雪は天から送られた手紙である」という句は,今なお多くの人びとに知られている。

堀 健夫(1899年生まれ)

開学の前年に竣工した理学部の建物(現,総合博物館)は,北海道初の本格的な鉄筋コンクリート造で,外壁には茶褐色のスクラッチ・タイルが張られていた。このタイル張りは,アメリカを代表する建築家フランク・ロイド・ライトが東京の帝国ホテル(1923年竣工)でスクラッチ煉瓦を用いたのが機縁になって,官庁や金融機関などの建物で使用されるようになった,当時のモダンな様式であった。

アインシュタイン・ドーム(写真: 北海道大学大学文書館提供)
アインシュタイン・ドーム(写真: 北海道大学大学文書館提供)
階下から見上げたアインシュタイン・ドーム(写真: 北海道大学大学文書館提供)
階下から見上げたアインシュタイン・ドーム(写真: 北海道大学大学文書館提供)

理学部の玄関を入ると,ドーム状の天井をもつ3階まで吹き抜けの階段ホールがあり,ドームの窓から入った外光が下方に降りそそぐようになっていた。教員や学生たちは,やがてここを「アインシュタイン・ドーム」と呼ぶようになる。率先してそう呼んだのは,物理学科の教授,堀健夫だったであろう。

アインシュタイン・ドームに通じる吹き抜け階段で(左から5 人目が中谷宇吉郎,その右が茅誠司,後列の右から7人目が堀健夫 写真: 北海道大学大学文書館提供)
アインシュタイン・ドームに通じる吹き抜け階段で(左から5 人目が中谷宇吉郎,その右が茅誠司,後列の右から7人目が堀健夫 写真: 北海道大学大学文書館提供)

堀健夫は,理学部が開学して5年後の1935年に,旅順工科大学から北大に着任する。しかしそれよりずっと前,京都帝国大学理学部物理学科を卒業して旅順工大に赴任するに先立ち,量子力学の創始者の一人として知られるニールス・ボーアのもとに留学していた。

その留学中,堀はベルリン郊外のポツダムにある「アインシュタイン塔」を見学した。そして内部にある太陽観測用の塔望遠鏡,とりわけ下部の分光器まで太陽光を導く精巧な仕組みに感激する。理学部玄関の吹き抜け階段ホールは,その「アインシュタイン塔」を彷彿させるものだった。

堀は留学の経験で得た,研究のために「自由闊達な雰囲気」を大切にするという考え方も北大理学部にもたらした。ボーアの研究所では,世界各地からやってきた研究者たちが,専門分野や年齢の違いなど気にすることなく,率直な物言いで議論を闘わしていた。日本の閉鎖的な講座制や師弟関係とのあまりの違いに,堀は強烈な印象を受けたのだった。

芝生の上でくつろぐ教官たち(左から2 人目が堀健夫,その右が中谷宇吉郎。右後方の建物は理学部 写真: 北海道大学大学文書館提供)
芝生の上でくつろぐ教官たち(左から2 人目が堀健夫,その右が中谷宇吉郎。右後方の建物は理学部 写真: 北海道大学大学文書館提供)
理学部近くのポプラ並木で(中央が堀 写真: 北海道大学大学文書館提供)
理学部近くのポプラ並木で(中央が堀 写真: 北海道大学大学文書館提供)

実験の手腕に優れていた堀は,戦後の1955年に,普通の顕微鏡を位相差顕微鏡として使う方法を発明し,発明協会発明賞を受賞する。そしてこの方法を使って,理学部の生物学系の教員たちの顕微鏡を,求めに応じ位相差顕微鏡に改造したことがあった。分野の違いを超えて協力しあおうとする堀の研究姿勢がよく現われていると言えよう。

分光学の実験に勤しむ堀健夫(写真: 北海道大学大学文書館提供)
分光学の実験に勤しむ堀健夫(写真: 北海道大学大学文書館提供)

北海道大学に着任してからの堀は,当時の物理学の最先端分野の一つである赤外分光の実験的研究に邁進し,分子スペクトルの同位体効果や,摂動,前期乖離(分子が光子を吸収して励起状態になるときに,通常の解離エネルギー以下で解離する現象)などで,助教授の四手井綱彦やその後任の古市二郎らとともに数々の成果を挙げた。

その古市二郎は,終戦後まもなく茅誠司の後任として教授となり,物資の乏しいなかで実験室の再建に努める。その過程で古市は,高分子溶液の物性に関心を抱くようになり,やがて高分子学科の設立を計画する。高分子の研究には物理学と化学の密接な連携が重要だと考えたからである。こうして,1959年に日本で初めて(大阪大学と並んで)高分子学科が誕生し,古市は同学科の初代教授となった。

鈴木 章(1930年生まれ)

北海道大学名誉教授の鈴木章は2010年,有機合成の分野においてパラジウムを触媒とするクロスカップリングを発展させた功績でノーベル化学賞を受賞した。

ノーベル賞を受賞し,喜びを語る鈴木章(写真提供: CoSTEP)
ノーベル賞を受賞し,喜びを語る鈴木章(写真提供: CoSTEP)

しかし1950年に北大理学部に入学したときの鈴木は,数学を学ぼうと思っていた。それなのに化学の道に進んだのは,杉野目晴貞教授の授業で,フィーザー夫妻による有機化学の教科書Textbook of Organic Chemistryに出会ったのがきっかけだった。

それは日本の無味乾燥な教科書と違い,実験装置などが「本物と同じように,すごくリアルに書いて」あり,「有機化学は面白い」と思わせるものだったと鈴木は言う。正の字を書いて回数を数えながら繰り返し読んだら,なんと33回にもなったという。

鈴木は1954年3月に学部を卒業すると,すぐに大学院に進学する。分析化学・理論化学・無機化学・有機化学の4つの講座のうち,杉野目教授が率いる有機化学教室を選んだ。2年後には博士課程に進学し,さらに3年後の1959年4月には理学部化学科第6講座(有機合成)の助手に迎えられた。翌年3月には「ヒドロフェナンスレン誘導体の合成」で博士の学位を取得した(phenanthreneはコールタールから抽出される有機物質で,染料や医薬品の原料となる)。

鈴木が理学部の助手になったころ,周りの研究者たちは研究のために盛んに海外に出かけていた。物理学科の中谷宇吉郎は夏になると氷の研究のためアラスカやグリーンランドに出かけていたし,化学科の理論化学講座の教授で触媒研究所長でもあった堀内寿郎は,モスクワで開催されたメンデレエフ会議に出席して研究成果を大々的に発表していた。こうした雰囲気の中で鈴木は,海外での研究にも目を見開いていった。

一方,世の中の動きに目を向けてみると,このころエネルギー資源が石炭から石油へと転換しつつあり,石油化学工業が興隆しつつあった。四日市や徳山,岩国などに石油化学コンビナートが建設され,化学工業は「技術革新の先兵」「花形産業」となっていた。

こうした事情を背景に,大学では化学関係の学科が次々と設置される。北大理学部でも,1959年に高分子学科が新設され,62年にかけて第1講座から第5講座まで順に体制が整えられていった。1960年には工学部でも,それまでにあった応用化学科のほかに合成化学工学科が新設され,工業化学計測,有機合成化学など6つの講座が順に設置されていった。そして鈴木は1961年10月,その合成化学工学科に助教授として迎えられる。

それから間もない,ある土曜日の午後のことであった。鈴木は札幌市内の書店で H.C.ブラウンの著書Hydroboration(ヒドロホウ素化)を見つける。そして「ハイドロボレーションという化学反応や,それによってできた有機ホウ素化合物などを対象に研究する化学に魅惑されてしまった。」

これがきっかけで,1963年から2年ほどパデュー大学(米国インディアナ州)のブラウンのもとに留学する。鈴木はこうして,ホウ素を用いたクロスカップリング反応の実現に至る道を歩み始め,1978年に初めてそれに成功する(論文発表は翌年)。これがノーベル賞受賞へとつながったのである。

かつて授業を受けた理学部の教室で,ノーベル賞受賞について語る鈴木章(写真提供: CoSTEP)
かつて授業を受けた理学部の教室で,ノーベル賞受賞について語る鈴木章(写真提供: CoSTEP)

北海道大学名誉教授 杉山 滋郎 著

参考文献
  • 北大理学部五十年史編纂委員会編 『北大理学部五十年史』北海道大学理学部,1980年
  • 杉山滋郎『中谷宇吉郎 人の役に立つ研究をせよ』ミネルヴァ書房,2015年
  • 杉山滋郎「研究者の「日記」」『楡蔭』(北海道大学附属図書館報)113号,2002年
  • 林正一「堀健夫先生を偲んで」『日本物理学会誌』第50巻第3号,1995年
  • 北海道大学CoSTEP著『鈴木章 ノーベル化学賞への道』北海道大学出版会,2010年