コオロギは音の高さで危険を判断する〜昆虫聴覚機能の新しい側面〜
行動神経学系の小川宏人教授の研究室では、大学院生の福富さんを中心とした研究で、昆虫の聴覚機能に関して新たな発見をしました。研究成果はScientific Reports誌に発表され、北海道大学のプレスリリースでも紹介されました。以下、小川先生と福富さんによる解説です。
同僚が上司に叱責されるのを遠くで聞いたら、あなたは「上司は今日機嫌が悪いかもしれない」と考え、良くない報告を先延ばしにしたり、挑戦的な提案を取りやめたりするかもしれません。このように、ヒトは音から様々な状況を把握し行動を適切に選択しています。
ヒトから進化的に遠く離れている昆虫にも、耳をもち音のシグナルを頼りに生活しているものがいます。例えば、メスのコオロギはオスの求愛歌を聞くと交尾をするために近づいていきます。また、コオロギを含めた多くの飛翔性昆虫は、捕食者であるコウモリの探索超音波を聞くと音源から遠ざかろうとする回避運動を示します。このように、昆虫が音に対してある決まった行動をとる例は多数報告されていましたが、ヒトのように聴覚系を状況判断に用いているかはわかっていませんでした。私たちの研究グループは、コオロギが特に何も行動を示さないような音も状況判断に用いているのではないかと考え、この謎に迫りました。
コオロギは両方の前肢に鼓膜器官をもち、様々な音を聞くことができます(図1A)。また、腹部後端にある尾葉と呼ばれる感覚器官(図1A)で周りの空気の流れを感知し、その突然の変化を捕食者の接近として捉えて、気流のやってくる方向から逃げようとします。
図1.A: コオロギの気流感覚器官(尾葉)と聴覚器官(鼓膜器官)。B: それぞれの周波数のトーン音を聞かせたときの,左からの気流刺激に対する逃避歩行運動の軌跡。いずれも気流と反対の方向に逃げているが,15 kHzの音を聞いた場合にはやや後方に移動している。
私たちはこれまでの研究で、コオロギが何も行動を起こさない10 kHzのトーン音を聞くと、次に来る気流に対する逃げ方を変えることを発見していました(Fukutomi et al., 2015)。しかし、どんな音に対しても同じように逃げ方を変えるのでは、音を状況判断に用いているとはいえません。
そこで、高さ(周波数)の違う二つの音刺激を使って、この気流に対する逃避行動における影響を調べました。飛んでいるコオロギは周波数が5 kHzの求愛歌に対しては近づくような運動を示す一方、同じパターンの音刺激であってもコウモリが出すような15 kHzなどの高い音に対しては逆に回避しようとすることが報告されています。このように、コオロギにとって音の周波数は、周りに仲間がいるかそれとも天敵がいるのかという状況を判断する重要な手掛かりになります。そこで今回の研究では、ボール型のトレッドミル装置の上を自由に歩行できるコオロギに5 kHzと15 kHzの2種類のトーン音を聞かせ、そのすぐ後に気流刺激を与えた時の逃避歩行運動を解析しました。
実験の結果、どちらの周波数のトーン音によっても、それだけではトレッドミル上のコオロギは行動しませんでしたが、音刺激の後に与えた気流刺激に対する逃避行動には次のような違いがありました。
(1) 15 kHz音を聞かせると、コオロギは気流刺激に対して逃げにくくなりましたが、5 kHz音を聞かせても逃げにくさは変わりませんでした。
(2) ただし、逃げる移動距離は、15 kHz音を聞かせた時の方が5 kHz音よりも長くなりました。
(3) 気流刺激を真横から与えた時にコオロギに前もってトーン音を聞かせると、聞かせなかった時に比べて真横よりも後方へ逃げるようになりましたが、その度合いは15 kHz音の方が5 kHz音よりも大きなものでした(図1B)。
(4) 15 kHz音を聞かせると、逃避行動におけるターン角度(つまり逃避行動の後にどちらを向いているか)をよりばらつかせましたが、5 kHz音ではそのような影響はありませんでした。
(1)と(2)の結果は、コオロギが周りにコウモリがいそうな状況ではむやみに風に反応して動くことをやめ、いざ逃げる時により遠くまで逃げようとしていることを意味しています。
また、(3)と(4)の結果から、コオロギは逃げる方向や向きをコウモリに予測されないようにしている可能性も考えられます。このように音の周波数によって逃避行動への影響が異なることから、コオロギが聴覚に基づいて状況を把握し、いろいろな行動に反映させている可能性が示唆されました。
これまで昆虫の聴覚系は、定型的な行動を引き起こすためのものとして考えられてきました。しかし、今回の研究から、昆虫の耳が単に交配相手に近づいたり天敵から逃れたりするためのきっかけとなる刺激を感知しているだけではなく、複雑な「状況判断」にも使われているという新たな機能的側面を持つことがわかりました。哺乳類に比べてずっと神経細胞が少ない小さな脳を持つ昆虫では、細胞レベルでの神経回路の理解を目指した研究が盛んです。そのなかでもコオロギの聴覚系は、古くから特に研究が進められているものの一つです。今回昆虫が聴覚を状況把握に用いていることが新たに発見されたので、ほ乳類のような複雑な脳では解明が難しかった「状況把握の機能」を実現する神経基盤を明らかにできるかもしれません。今後は、音によって得られた状況が脳の中でどのように表現されているのか、状況判断に基づいてどのように行動が調節されるのか、といった神経メカニズムを明らかにしていく予定です。
発表論文: Matasaburo Fukutomi and Hiroto Ogawa (2017) Crickets alter wind-elicited escape strategies depending on acoustic context. Scientific Reports 7: 15158. doi:10.1038/s41598-017-15276-x(https://www.nature.com/articles/s41598-017-15276-x)