音を聞くとコオロギは逃げ方を変える?
行動神経学系の小川宏人准教授の研究室では、大学院生の福富又三郎さんを中心とした研究によって、コオロギの逃避行動に関する興味深い発見をし、論文発表しました。以下、福富さん本人による解説です。
近づいてくる捕食者からすばやく逃れるための逃避行動は、単純な“反射”であると考えられがちですが、実は動物が直面している状況に応じて柔軟に変化します。逃避行動の状況依存性は、逃避を直接引き起こす“トリガー刺激”と状況を示す“状況刺激”が統合されることで生じていると考えられますが、トリガー刺激と状況刺激の間のどのような関係性が逃避行動の変化に影響を及ぼすのかは分かっていません。例えば、トリガー刺激と状況刺激が同じ方向から与えられた場合と、別々の方向から与えられた場合では、逃避方向を変えるのでしょうか?私たちは、コオロギを用いて、音刺激を状況刺激として与えた時、気流刺激(トリガー刺激)で起こる逃避行動が変化するのかを調べました。
コオロギは腹部末端に尾葉と呼ばれる気流感覚器官をもち(図1)、短く速い気流刺激に対して反対側に素早く遠ざかる逃避行動を示します。一方、コオロギは前肢に鼓膜器官を持ち、メスコオロギはオスの求愛歌に対して近づいていく音源定位と呼ばれる行動を示します。つまり、コオロギは気流刺激も音刺激も、その刺激がどちらからやってくるのかを知覚することができます。そこで、私たちは、コオロギに特に行動を起こさせない10 kHzのトーン音を聞かせて、その後気流刺激を与えた時の逃避歩行運動を、ボール型トレッドミル装置を用いて記録しました。トレッドミルの周囲には8つの異なる方向にスピーカーと気流ノズルを備え付けてあり、いろいろな方向から音刺激と気流刺激を与えることができます。気流と音の刺激方向の一致性の効果を調べるために3種類の刺激パターンを用意しました。音刺激と気流刺激を同じ方向の真横から与えるMatch、気流は左右どちらかから与えるが音は常に前から聞こえているMismatch、気流だけを左右から与えるTone-freeの3つです。MatchとMismatchでは音刺激は気流刺激よりも0.8秒先行させて1秒間与え、0.2秒の気流刺激と同時に終了します。
コオロギは、真横から気流刺激を与えるとそのほぼ反対側へ歩行しますが、音刺激を先行して与えたMatch・Mismatchでは、音を聞かせないTone-freeに比べて後方へ歩行しました(図2)。また、いろいろな強さの気流刺激に対する反応を比較したところ、音を聞かせた場合では、弱い気流に対して反応しなくなる、つまり気流だけを与えられたときよりも反応閾値が上昇していることがわかりました。しかし、MatchとMismatchの間では、移動方向にも反応閾値にも差がみられず、二つの刺激の方向一致性の効果はありませんでした。さらに、音刺激による、気流に対する歩行行動の変化は、刺激を与えた最初の試行から観察できました。つまり、この行動の変化は学習によって獲得されたものではなく、コオロギが生得的に持っている聴覚と気流感覚を統合する神経メカニズムによるものであると考えられます。
音を聞くとなぜコオロギは逃げ方を変えるのでしょう?コオロギは4〜5kHzの求愛歌に対しては音源定位を示しますが、コウモリのエコロケーション・コールに使われる30~40 kHzの超音波に対しては、飛行中に回避する行動を示すという報告があります。コオロギは音刺激の周波数によって異なる状況を認識し、逃げ方を変えているのかもしれません。コオロギは古くから神経生理学的な研究材料として用いられ,気流感覚系・聴覚系の神経システムについての詳細な知見が蓄積されています。今後はその利点を活かして、行動を状況依存的に修飾する神経メカニズムを解明していきたいと考えています。
図1:A コオロギの気流感覚器官(尾葉)と聴覚器官(鼓膜器官)。B ボール型トレッドミル装置。コオロギは空気流で浮かせた発泡スチロール製のトラックボール上を自由に歩行できる。
図2:A 実験に用いた3つの刺激パターン。Match・Mismatchでは、音刺激を気流刺激に先行して呈示する。Matchでは音と気流は左右から交互に与えられるが,刺激方向は常に一致している。Mismatchでは気流は左右から与えられるが,音刺激は前方から呈示される。Tone-freeは気流刺激のみを与える。B 気流刺激に対する歩行運動の軌跡。気流だけを与えた場合(Tone-free)、気流に対してほぼ正反対側に逃げる傾向がみられるが,音を先行して与えると(Match,Mismatch)、真横からの気流に対して、やや後方へ歩行している。